【No.26】 【前回の続き】留学しない優秀な子どもたち——ベトナムの『教育大国への布石』

前回、メトロ1号線が富裕層の生活圏を郊外へ広げていることをお伝えしました。その象徴的な現場が、大学村隣接のマンション群です。ある大学講師の友人によれば、「10年前なら海外留学だった優秀な子どもたちが、今は国内進学を選ぶ」というのです。その変化の背景には、教育の質と規模を引き上げようとする、国を挙げた意欲がありました。


前回、メトロ1号線という一本のインフラが、ホーチミンの富裕層の生活圏を郊外へと押し広げていることをお伝えしました。その変化が最も分かりやすい形で表れている場所の一つが、大学村に隣接する新しいマンション群です。先日、友人とお茶をしたショッピングモールで、私はある光景に出会いました。お昼時のレストランフロアを埋め尽くしていたのは、決して質素とは言えない食事を楽しむ、若い世代の姿だったのです。この光景について、大学講師をしている別の友人にたずねたところ、興味深い指摘をもらいました。「10年前なら、優秀な子どもは迷わず海外留学を選んでいた。しかし今は、国内で海外並みの教育が受けられるなら、あえて国内進学を選ぶ家庭が増えている」というのです。この一言が、大学村で見た光景の意味を、私の中で一気につなげてくれました。

ランチ時のモールで見た、もう一つの大学村

先日訪れたのは、大学村に隣接する新しいマンション群の一角にあるショッピングモールでした。お昼時ということもあり、そのレストランフロアは若い世代——おそらく周辺の大学に通う学生たち——で埋め尽くされていました。注文されている料理の価格帯や、席の埋まり方を見る限り、決して「安価な学生街の食堂」という水準ではありません。

以前のベトナムであれば、学生街の食事情といえば、路上の屋台や、数万ドン程度の学生食堂が中心でした。しかし今、大学村の周辺では、都心のショッピングモールと変わらない価格帯の飲食店が、学生を主な客層として成立しています。友人の話では、こうした新しいマンション群には、裕福な家庭の子どもたちが目立って増えているとのことでした。かつて主流だった大学の巨大な寮(ドミトリー)で共同生活を送る学生に加えて、親がマンションを購入または賃借し、そこから通学する学生が増えているというのです。

「優秀な子は留学」という常識の揺らぎ

この光景をさらに深く理解する手がかりをくれたのが、大学講師をしている別の友人の一言でした。「10年前なら、成績のいい子は迷わず海外留学だった。今は、国内で海外並みの教育が受けられるなら、国内進学を選ぶ家庭が増えている」というのです。

この指摘は、単なる印象論ではなさそうです。近年、海外留学を取り巻く環境そのものが厳しくなっていることが、複数の報道で指摘されています。主要な留学先国でビザ審査が厳格化し、現地の生活費インフレも重なって、費用と手続きの両面で負担が増しているのです。一方で国内では、海外の大学と連携した国際プログラム——英語による授業、海外提携大学のカリキュラムをそのまま国内で履修できる仕組みなど——が急速に拡充されています。費用を大きく抑えながら、留学に近い教育環境を国内で得られる選択肢が現実的になってきた、というわけです。

つまり、「留学をあきらめて国内に残る」というより、「国内進学が、以前より“見劣りしない合理的な選択”になった」という表現の方が実態に近いのだと思います。優秀な子どもを持つ家庭ほど、こうした選択肢の変化に敏感に反応しているのでしょう。

「安い労働力の国」から「教育に投資する国」へ

この変化の背景には、もう一つ大きな要因があります。それは、大学村そのものへの投資が、単なる不動産デベロッパーの商機というだけでなく、国としての教育戦略の一部として位置づけられつつあるという点です。

大学村エリアには、複数の国立大学が加盟大学として集積しており、その規模は年々拡大を続けています。かつては「郊外に追いやられた大学」という印象すらあった場所が、今では国内有数の高等教育拠点として、インフラ整備や用地の再整理が進められています。地元行政も、この一帯の課題を早期に解決する方針を明言しており、教育拠点としての機能集約に向けた機運が高まっているところです。

背景にあるのは、半導体・AI・国際的な研究開発拠点の誘致が進む中で、国内で通用する高度人材を自前で育てる必要性が急速に高まっているという事情です。ベトナムが「安価な労働力を提供する国」というモデルの限界を、政府自身が強く自覚し始めている。大学村への投資は、その意味で、単なる都市開発ではなく、次の成長段階に進むための国家的な布石だと捉えるべきでしょう。

富裕層家庭が示す、教育への「本気度」

面白いのは、こうした国の意欲と、富裕層家庭の行動が、期せずして同じ方向を向いている点です。子どもをドミトリーではなく、セキュリティの整ったマンションに住まわせ、快適な環境で学ばせたいという家庭の判断や、「留学よりも質の高い国内進学」を選ぶという判断は、単なる贅沢志向というより、「教育にきちんと投資する」という姿勢の表れだと感じます。

日本でも、進学に合わせて子どものために都心近くの物件を用意する家庭は珍しくありません。ベトナムの富裕層家庭が今、大学村周辺で行っていることは、その構図と本質的には変わらないのではないでしょうか。かつては一部の富裕層だけが選択できた「教育環境への投資」が、経済成長とともに、より広い層に広がりつつある。その現場を、私はあの日のモールで目の当たりにした気がします。

現場では更にたくさんのマンション建設が進んでいる

教育インフラは、次の成長エンジンになるか

道路とメトロが都市の生活圏を郊外へ広げたように、教育への投資は、国の産業構造そのものを長期的に押し上げる力を持っています。大学村という一つのエリアに、インフラ投資・住宅開発・そして家庭の教育投資という三つの流れが同時に集まっている光景は、ベトナムが次の成長段階に向けて、静かに、しかし着実に準備を進めていることを示していると思います。

日本企業にとっても、この変化は無関係ではありません。将来、大学村から育つ高度人材——しかも「留学せずとも国内で通用する教育を受けた」世代——が、ベトナムに進出する日本企業の現場を支えていくことになるはずです。今、郊外で起きている静かな変化の先に、10年後のベトナムの労働市場の姿が透けて見えるように、私には感じられます。

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