【No.25】 メトロ一本で、都市は変わる——グレーターホーチミンへ広がる富裕層の生活圏

2002年、まだ赤土の未舗装路が広がるだけだった郊外を訪れたことがあります。23年後の今、車で同じ界隈を走り、その変貌に言葉を失いました。決定打はメトロ1号線、たった一本です。長らく都心に固定されていた富裕層の生活圏が、地下鉄という一本の線で郊外へ押し広げられつつあります。その変化の速さについてお伝えします。


ホーチミンの富裕層は、長らく市中心部——1区、3区、フーニュアン区あたり——に生活圏を固定していました。少なくとも私が現地で法人を立ち上げた2003年前後は、そうでした。郊外は郊外であり、都心とは明確に切り離された場所だったのです。ところが先日、友人と車であるエリアを走り抜けた際、その前提が音を立てて崩れているのを目の当たりにしました。理由はただ一つ、メトロ1号線が開通したことです。たった一本の地下鉄が、都心一極集中だったホーチミンの富裕層の生活圏を、郊外へと押し広げています。その速度は、23年間現地でビジネスを見てきた私の感覚をもってしても、驚くべきものでした。

2002年、赤土の道の先にあった郊外

私がこのエリアを最初に訪れたのは、2002年のことです。横浜FCの冬季キャンプ・親善試合の事務局として滞在していた頃、ある目的があって、ホーチミン郊外の体育系大学を訪ねたことがありました。当時の記憶にあるのは、赤土がむき出しの未舗装路、ぽつぽつと建つだけの校舎、そして周囲に広がる何もない土地です。バイクで向かうにも一苦労するような場所で、正直なところ「なぜこんな辺鄙な場所に大学を作ったのだろう」と思ったことを覚えています。中心部からのアクセスは悪く、生活の匂いがしない、純粋な「教育機能だけが置かれた土地」という印象でした。

あれから23年。先日、友人と車でこの界隈を通りかかる機会があり、その変わりように率直に驚きました。舗装された広い道路、整然と並ぶ大学校舎群、そしてその隣に立ち並ぶ真新しいマンション群。かつて私が見た赤土の風景は、もうどこにも残っていませんでした。

一本の地下鉄が変えた地理感覚

この変化を後押しした最大の要因は、間違いなくメトロ1号線(ベンタイン~スイティエン線)の開通です。この沿線には大学村エリアに直結する駅も新設されており、これまでバイクや車が前提だった「郊外への移動」という概念そのものを塗り替えています。

これまでのホーチミンでは、「郊外」と「都心」の間には、渋滞・距離・時間という三重の壁がありました。雨季の冠水、慢性的な渋滞、バイクでの長距離移動という条件が重なれば、片道1時間以上という数字以上に、心理的な距離はさらに遠く感じられます。天候や時間帯によって「読めない移動時間」が常態化していたエリア、それが「郊外」という言葉の実態でした。それが、鉄道という定時性のあるインフラが1本通っただけで、状況は一変します。渋滞にも天候にも左右されず、決まった時間で、決まった運賃で移動できるという安心感は、住む場所を選ぶ基準そのものを根本から変えてしまうのです。

この構造は、実は日本人にとって馴染み深いものでもあります。かつて東京や大阪でも、私鉄各社が郊外に路線を延ばすことで、それまで「都心から切り離された田畑」だった土地が住宅地として一気に開発され、沿線に生活圏が形成されていった歴史があります。鉄道が先に敷かれ、その後を追うように住宅・商業施設が集積するという順序は、時代も国も違えど本質的には同じ現象だと感じます。ホーチミンは今、まさにその入り口に立っています。

道路インフラは予算をかけて「面」として都市を広げていきますが、効果を実感できるまでには長い時間がかかります。一方で鉄道は「点」を結ぶことで、離れた場所同士を一気に地続きの生活圏へと変える即効性を持っています。実際、この沿線では大学村周辺に限らず、駅から徒歩圏内という立地を売りにした住宅開発が相次いでおり、デベロッパー側もこの「メトロ効果」を明確に価格や訴求文句に織り込み始めています。かつての「陸の孤島」が、たった一本の線によって、都心と地続きの生活圏に組み込まれました。これはインフラ投資が都市構造そのものを書き換える、分かりやすい実例だと思います。

富裕層の生活圏は、もう「都心」だけではない

先日、友人とお茶をしたのは、この沿線エリアに新しくできたマンション群に隣接するショッピングモールでした。お昼時ということもあり、そのレストランフロアは若い世代——おそらく周辺の大学に通う学生たち——で埋め尽くされていました。価格帯や雰囲気を見る限り、決して「安価な学生街の食堂」という水準ではありません。

かつてこうした消費体験は、都心のショッピングモールでしか成立しなかったものです。それが、メトロ沿線の郊外でも当たり前のように再現されています。これは、この一帯に一定の可処分所得を持つ層——学生本人というより、その親世代を含めた富裕層家庭——が生活の拠点を移し始めていることの、分かりやすい証拠だと感じました。

グレーターホーチミンへ——加速する郊外化

23年前、私が見た「郊外」は、都心の生活とは無縁の、純粋な機能特化エリアでした。今、そこには都心と変わらない消費水準の生活圏が広がりつつあります。この変化を動かしたのは、大規模な都市計画の号令というより、メトロという一本のインフラだった、という点に私は注目したいと思います。

道路網の整備には時間がかかり、効果も緩やかにしか実感できません。しかし鉄道は、開通した瞬間から人々の行動様式を変える即効性を持っています。ホーチミンは今、1号線というたった一本の線をきっかけに、都心一極集中型の都市から、郊外まで含めた「グレーターホーチミン」へと生活圏の再編を始めています。今後、2号線以降の路線が加わっていけば、この動きはさらに加速するはずです。都心の不動産価格の高騰に疲れた富裕層が、次にどこへ向かうのか——その答えの一端を、私は今回の郊外ドライブで見た気がしました。

次回は、この延長線上で見えてきた、もう一つの変化について触れたいと思います。

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