7月1日まで、あと2日です。
電子商取引法、サイバーセキュリティ法、建設法、個人所得税法の本格施行。これだけの法律が束になって動き出す日は、少なくとも私がこの国に関わってきた四半世紀の中で、記憶にありません。法律の数が多いというより、その射程が広い。デジタル空間、建設市場、個人の所得、そして外資のデジタル管理まで、ほぼ全方位の「ルール更新」が同時に走ります。
法律の施行日というのは、現地に住んでいないとその温度が伝わりません。ホーチミンの街では今、事業者もインフルエンサーも、おそらく役人でさえも、半ば慌てながら新しいルールを読み込んでいます。この国はまた、動こうとしています。
また突然何が変わるのか、7月1日施行の主要法律
まず、今回同時に施行される法律群を整理しておきます。
電子商取引法(Law No. 122/2025/QH15)は、ベトナムで初めてECを包括的に規律する専門法です。ライブコマースやアフィリエイト販売への規制、越境プラットフォームに対する現地代理人の設置義務、出品者の本人確認義務などが柱となっています。これまで政令レベルで断片的に規制されてきた分野が、初めて「法律」として格上げされた意味は大きいです。
サイバーセキュリティ法(Law No. 116/2025/QH15)は、2018年版の旧法と2015年のネット情報セキュリティ法を統合・刷新するものです。公安省がデジタル空間の管理を一元的に担い、ベトナムでサービスを提供するすべての国内外のプラットフォームに対して、ユーザーの本人確認、違法コンテンツの削除対応、データのローカル保存などを義務づけます。
建設法(新法)は、投資プロジェクトの審査・承認プロセスを抜本的に簡素化します。従来は国家機関が技術設計を二重審査する仕組みでしたが、新法では基本設計の可否を一度判定した後の詳細設計審査は事業者自身の責任に委ねられます。「ワン・プロシージャー原則」の導入により、許認可待ちでプロジェクトが止まるという慢性的な問題の改善が期待されています。
個人所得税法の本格施行も、7月1日から始まります。累進課税の区分が7段階から5段階に整理され、本人基礎控除が月1,100万ドン(約6万8,000円)から1,550万ドン(約9万5,000円)へ、扶養控除が1人あたり440万ドン(約2万7,000円)から620万ドン(約3万8,000円)へ大幅に引き上げられます。残業代・夜間手当への非課税措置も拡充されており、実質的に中間層・製造業従事者の手取りが増える設計です。
「ライブ配信で売る」が、法律の世界に入る日
この中で、ベトナム人の日常生活に最も直接的に触れるのが電子商取引法です。
2026年第1四半期、ベトナムの主要4プラットフォーム(Shopee、TikTok Shop、Lazada、Tiki)の合計売上高は148兆ドン(9,100億円)を超え、前年同期比で約47%増という驚異的な数字を記録しました。ECはもはやベトナムの生活インフラです。ShopeeとTikTok Shopが市場の約9割を握る2強体制が確立しつつある中、特にTikTok Shopが引き上げているのがライブコマースの比重です。
ホーチミン市内のカフェや小さなマンションの一室から、スマートフォン一台でコスメや衣類を売る若い女性たちの姿。それが今、ベトナムでは「普通の仕事」になっています。ライブコマースの熱量はFacebookライブが依然として市場シェア首位(約32%)を保ちながら、TikTok Shopがその後を追う構図です。
この「スマホで稼ぐ経済」に対して、電子商取引法はいくつかの重要な義務を課します。アフィリエイト販売やライブコマースに従事する個人は、透明性と消費者保護に関する法的責任を負うことになります。プラットフォーム側にも、出品者の本人確認(ベトナム国民はVNeIDシステムで確認)や違法・偽物商品の24時間以内での削除対応、取引記録の3年間保存が求められます。
越境販売を手がける外国プラットフォームは、現地法人の設立または現地代理人の指定が事実上必須になります。ベトナム人ユーザーを持つ日本の事業者が今後EC販路として参入を考える際には、この現地代理人義務の影響を前もって整理しておく必要があります。
TikTok Shopは施行前の今年前半から政策対応を加速させ、運用の強化と商品情報の標準化を急いでいます。「法律を先読みして動く」というプラットフォームの姿勢は、日本企業にとっても一つの判断基準になるでしょう。
デジタルの「透明化」が持つ、二つの顔
サイバーセキュリティ法の施行は、ビジネス的な観点だけでは語れません。
新法が義務づけるのは、ユーザーのIPアドレスとデジタルアカウント情報に基づく厳格な本人確認です。プラットフォームは当局の命令があれば違法コンテンツを速やかに削除しなければならず、公安省が国家のサイバーセキュリティ管理の主導機関として位置づけられます。
「透明化」には、常に二つの側面があります。消費者を偽物や詐欺から守るという真っ当な動機と、デジタル空間における情報管理という統治上の動機。この両輪がベトナムのデジタル政策の常数です。私は20年以上この国に関わってきて、それを何度も目撃してきました。どちらが主目的かを外部から断言することは難しいですが、両方が同時に機能するのがベトナムの現実です。
外資企業への実務上の影響は明確です。ベトナムにユーザーを持つ外国プラットフォームや外国のSaaSサービスは、旧法よりも広範な範囲で規制対象になります。「ベトナムでサービスを提供していれば適用される」という原則は、クラウドサービスや越境デジタルサービスを使って事業運営している日本企業にとっても、他人事ではありません。データのローカル保存義務の具体的な範囲は今後の政府令で確定しますが、今の段階から自社のデータフローを棚卸しておくことを勧めます。
建設現場と個人の財布、日常に近い変化
建設法の改正は、ベトナムで工場や施設の建設を進めている日系企業にとって、直接的なメリットになりえます。
従来の審査プロセスでは、基本設計と詳細設計の両方について国家機関の承認を得る必要があり、この二重審査が工期の長期化と現場の停滞を招いてきました。新法は「事前審査から事後チェックへ」という原則転換を打ち出しており、可否判断の主体を行政から事業者自身へとシフトさせます。承認プロセスの短縮が実際にどこまで実現するかは運用次第ですが、制度の方向性は明らかに「スピード重視」です。
個人所得税の変化は、日本企業の現場労務管理に静かに影響します。今回の改正の核心は、「雇用主の総支払額を変えずに、従業員の手取りが増える」という設計です。控除額の引き上げにより課税対象となる所得が減り、源泉徴収税額が下がる。その分が従業員の手取りに上乗せされる仕組みです。特に子どもを持つ中間層の工場勤務者やオフィスワーカーが恩恵を受けやすく、採用・定着面での競争環境にも影響を与えます。
ただし一点、注意が必要です。今回の税制改正は、2026年に入って施行された最低賃金の約7.2%引き上げと重なっています。つまり現場の従業員からすると、「給与も上がり、さらに税負担も軽くなる」という二重の恩恵局面です。雇用主の側からは、「賃金上昇に加え、給与計算ロジックの更新も必要になる」という実務対応が同時に求められていることも付け加えておきます。
「学習する政府」の、次のステージへ
7月1日という日付を選んで、これだけの法律を束にして施行することは、偶然ではないと私は思っています。「変化のシグナル」を国内外に向けて明確に発信するための、政治的な意図を感じます。
この変化は、日本企業にとって何を意味するでしょうか。
コンプライアンス対応を「増えたコスト」と捉えれば、負担が増えるだけです。しかし視点を変えると、ルールが整った市場は、グレーゾーンを嫌い透明な取引環境を好む日本企業にとって、むしろ戦いやすい土俵になります。「ルールがないから怖い」と躊躇していた企業が、ルールが整ったことで参入の一歩を踏み出せるケースも、これから増えてくるはずです。
7月1日以降のベトナムを、旧来のイメージで読み続けることは、機会の損失につながります。「ベトナムがまた動いた」。そう感じる日が、今週やってきます。
最後に一つ。7月1日という日付には、もう一つの文脈があります。翌7月2日は、サイゴン・ザーディン市がホーチミン市へと正式に改名されてからちょうど50年目の節目にあたります。この50周年を記念して、ホーチミン市内の公共スペースでは多数の文化・芸術イベントが予定されており、市全体が祝賀ムードに包まれる1週間の始まりが、この7月1日です。
法律の一斉施行と、都市の命名50周年という歴史的節目。この二つが1日違いで重なることが偶然かどうかは分かりません。ただ私は、ベトナム政府がこういう「タイミングの演出」を得意としていることを知っています。もちろん、ベトナムの人々はより正確に分かっていると思います。でも、そのことは決しておくびにも出しません。この辺の空気感がやはりベトナムのいいところなんです。
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