第1話 二つのベトナム——統計と現場の間にある深い溝
「ベトナムは変わった。投資するなら今だ」
近年、こうした声が日本のビジネス界に溢れている。確かに数字だけを見れば、その言葉に嘘はない。2025年の実質GDP成長率は8.02%を記録し、過去15年間で2番目の高成長を達成。名目GDPは約5,140億ドルに達し、一人当たりGDPも5,000ドルを突破して「中上位所得国」への移行段階に入ったとされる。
一方で、現地に長く暮らす者の目には、別の風景が映る。増え続ける規制と罰金、混乱する行政手続き、そして疲弊する市民の声。
華やかな経済統計と、現場の肌感覚のギャップ。これは単なる錯覚なのか、それとも見極めが必要な本質的なリスクなのか。今この問いが、かつてなく重要に思えてならない。
今聞こえてくるベトナムへの評価は二極化している。一方では「経済発展が著しく、今後の伸びも期待でき、投資するには格好の市場だ」という強気の声。もう一方では、「行政手続きの煩雑さや不透明さは変わらない。むしろ悪化している」という現場からの声。同じ国を見ているはずなのに、なぜこれほど評価が分かれるのか。
それは、ベトナムが今まさに「移行期」の只中にいるからだと私は考えている。移行期とは、旧い秩序が崩れ始め、新しい秩序がまだ定着していない、最もノイズが多く、最も判断が難しい時期だ。
「発展途上の国にはなんでもある、ないのはルールだけ」
2000年代初頭、ベトナムに赴任した当時、大手商社の先輩駐在員から教わった言葉がある。
道路を逆走するバイク、慣行として定着していた袖の下、曖昧に運用される許認可。当時のベトナムを日々生きていると、この言葉が骨の髄まで染みてきた。それはネガティブな評価ではなく、ある種の活力の源泉でもあった。ルールがないことで、スピード感があり、交渉の余地があり、人と人とのつながりで物事が動いた。「お金で解決できないことはない」という空気が、時に息苦しくもあり、時に頼もしくもあった。
あれから20年以上が経ち、今ベトナムは急速に「ルールのある国」へと変貌を遂げようとしている。そしてこの言葉が、今また頭の中に蘇ってくる。
現在の人々の多くが「ベトナムも以前と違い、グレーゾーンが少なくなったので、投資しても失敗が少ない安全な国になった」と感じている。ニュースを見聞きしていると、確かにそのように見える。法整備が進み、省庁が再編され、取締りが強化されている。
しかし、本当にそうなのだろうか。
「ルールができた」ことと「ルールが公正に運用されている」ことは、まったく別の話だ。かつて「ルールがなかった」時代には、誰もがそれを前提に動いていた。しかし今は、「ルールがある」という前提のもとで動きながら、実態はまだグレーゾーンが残っている。ある意味でより複雑な状況が生まれている可能性がある。
この違和感こそが、今後のベトナムを見極める鍵だと思っている。次回は、その「超高速改革」の実態と、市民生活に起きている変化を具体的なデータで検証する。
※本記事は、ベトナム24年の駐在経験と、ジェトロ調査報告、ベトナム政府発表データ等の公表情報をもとに執筆しています。